2024年07月03日14:01

2024年発行の新五千円札の顔にも選ばれた津田梅子(つだ・うめこ)は、
日本の女子教育に人生をかけ、日本の近代化の礎を築いた
人物の一人として知られています。
その父である津田仙(つだ・せん)もまた、
未来を見つめ、国の近代化と市民のために力を尽くした先駆者でした。
そんな津田梅子と津田仙は、
当時日本では珍しかったキリスト教徒でした。
津田梅子の数奇な人生
~日本初の女子留学生~
津田梅子が生まれたのはちょうど幕末から明治に切り替わる直前、
元治元年(西暦1864年)の事でした。
廃藩置県(はいはんちけん)から初めての内閣発足と、
まさに明治維新の目まぐるしい時代に、
女性の地位向上のための女性教育に人生を燃やした女性です。
梅子の父 仙は、当時としては珍しく英語やオランダ語に
精通したかなり先進的な思想の持ち主で、
幕府の外国奉行にも携わった人物でした。
その仙の勧めによって、1871年、梅子はなんと6歳にして
岩倉使節団の一員として渡米留学し、
11年間をアメリカで過ごすこととなったのです。
梅子の他に4人の女子も留学しました。日本人初の女子留学生でした。
5人の中でも最年少であった梅子は、
アメリカ・ワシントンのランマン夫妻の元に滞在しつつ勉学に励みました。
8歳のころに日本政府によるキリスト教の禁教が解かれると、
ランマン夫妻に連れられて教会に通っていた梅子は
洗礼を志願し、アメリカで受洗しました。
渡米当初は二言三言の英単語しか知らなかった梅子ですが、
勤勉に励み、非常に優秀な成績で高校を卒業して日本に帰国しました。
日本での活動
梅子はアメリカ滞在時から、「日本の女性のための学校を作りたい」
という志を持っていて、共に留学した留学生たちとその誓いを立てていました。
帰国後は使節団として共に渡米した伊藤博文宅で、
英語や西洋文化について教える住み込みの家庭教師として働き、
そののち伊藤博文の采配で華族女学校(現在の学習院大学)で、
英語教師として教鞭をとることとなりました。
その後梅子は再びアメリカの大学で学ぶために単身渡米し、
3年間アメリカで学びました。梅子の優秀さに、研究室の恩師からは
「研究者にならないか」と勧められ、梅子はまたとないこの話に
葛藤しましたが、日本の女性の教育と地位の改革に
使命感を持っていたため、この話を断り日本に帰国しました。
再び華族女学校で教鞭をとる中、アメリカやイギリスへ招かれる機会があり、
ヘレン・ケラーやナイチン・ゲールとも会い、
大きな刺激を受けました。そうした中で梅子は、
華族女学校での華々しいキャリアを手放して、かねてからの夢であった
自分の学校を作ることを決意しました。梅子が作ったのは、
英語教員を育てるための女学校でした。
梅子は女性が自立するためには、なによりも安定した職を
手にする必要があると考えました。
当時女性でも安定的な地位につける職は、
特別な教育が必要な英語教師ぐらいだったのです。
これまでの数々の友人たちにも助けられて開校した
「女子英学塾」は、はじめは小さい古民家で、
十名の生徒からはじまりました。梅子は非常に情熱的で
厳しい先生でしたが、次第に高いレベルの英語教育が
身につく女子学校として評判となり、生徒も増えていきました。
女子英学塾は関東大震災などの幾多の困難を乗り越えて
大きく成長し、後の津田塾大学となりました。
近代的な価値観とキリスト教信仰
今でこそ、基本的人権や人類の平等は当然の理念として受け入れられていますが、
開国間もなく、厳しい身分制度が色濃く残る明治時代、
キリスト教的思想は日本人にとっては先進的なものでした。
道徳理念的にも、強者が欲しいままにふるまって
弱者から搾取するのは当然の事とされていました。
梅子や仙から見て、西洋の先進的な思想の裏に
キリスト教があることは明らかでした。
キリスト教信仰は人命を神の前に等しく尊いものとし、
神の前にへりくだって、互いに愛し合い、助け合うようにと勧めています。
またこの世界での命には限りがありますが、
神を仰ぐときに死んでもなお天国に行くことができると教えているのです。
梅子や仙はこの愛と希望に満ちた教えに感銘を受け、
深く共感して受け入れたのではないでしょうか。
使命に生きる
梅子は士族の出身者であり、その周りも華々しい社交界の人々でしたが、
鹿鳴館の舞踏会や表面的な西洋かぶれに興じる人々を、
どこか冷めたまなざしで見定めていました。
そして地位の低い人々や、特に不当なまでに
虐げられていた当時の女性たちに心を向けていました。
そうして梅子はその生涯を女子教育と女性の地位向上のために捧げました。
激動の時代に、日本初の女子留学生という数奇な人生を歩んだ梅子は、
「この特別な人生には何か意味がある」ということをよく自覚し、
誠実にその任務を果たそうとしていたのです。
そして留学や教育の経験、与えられた環境から
「自分にしかできないこと」があり、それが何であるかを理解していたのではないでしょうか。
それはけっして平穏で楽しみばかりの人生ではなかったことでしょう。
ひたすら勉学に努め、生みの親や育ての親との離別も経験し、
アイデンティティのゆらぎや孤独を感じることもあったはずです。
しかしそのような中でも、与えられた境遇を感謝し、
周囲の人々との愛を育み、またさらに見知らぬ人々への愛に
突き動かされてまい進し、その使命のためにいのちを燃やし尽くしたのです。
私たち一人ひとりにも、神様が与えてくださった
ご計画と使命があります。さまざまな困難に立ちすくむときに、
天を見上げてその意味を問い、そして神様の視点で感謝してそれを受け入れ、
大胆に応答して生きる者でありたいと思わされます。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って
召された者たちと共に働いて、
万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
<ローマ人への手紙8:28>
~新生宣教団~
クリスチャン人物伝より
新五千円札の顔:津田梅子
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2024年発行の新五千円札の顔にも選ばれた津田梅子(つだ・うめこ)は、
日本の女子教育に人生をかけ、日本の近代化の礎を築いた
人物の一人として知られています。
その父である津田仙(つだ・せん)もまた、
未来を見つめ、国の近代化と市民のために力を尽くした先駆者でした。
そんな津田梅子と津田仙は、
当時日本では珍しかったキリスト教徒でした。
津田梅子の数奇な人生
~日本初の女子留学生~
津田梅子が生まれたのはちょうど幕末から明治に切り替わる直前、
元治元年(西暦1864年)の事でした。
廃藩置県(はいはんちけん)から初めての内閣発足と、
まさに明治維新の目まぐるしい時代に、
女性の地位向上のための女性教育に人生を燃やした女性です。
梅子の父 仙は、当時としては珍しく英語やオランダ語に
精通したかなり先進的な思想の持ち主で、
幕府の外国奉行にも携わった人物でした。
その仙の勧めによって、1871年、梅子はなんと6歳にして
岩倉使節団の一員として渡米留学し、
11年間をアメリカで過ごすこととなったのです。
梅子の他に4人の女子も留学しました。日本人初の女子留学生でした。
5人の中でも最年少であった梅子は、
アメリカ・ワシントンのランマン夫妻の元に滞在しつつ勉学に励みました。
8歳のころに日本政府によるキリスト教の禁教が解かれると、
ランマン夫妻に連れられて教会に通っていた梅子は
洗礼を志願し、アメリカで受洗しました。
渡米当初は二言三言の英単語しか知らなかった梅子ですが、
勤勉に励み、非常に優秀な成績で高校を卒業して日本に帰国しました。
日本での活動
梅子はアメリカ滞在時から、「日本の女性のための学校を作りたい」
という志を持っていて、共に留学した留学生たちとその誓いを立てていました。
帰国後は使節団として共に渡米した伊藤博文宅で、
英語や西洋文化について教える住み込みの家庭教師として働き、
そののち伊藤博文の采配で華族女学校(現在の学習院大学)で、
英語教師として教鞭をとることとなりました。
その後梅子は再びアメリカの大学で学ぶために単身渡米し、
3年間アメリカで学びました。梅子の優秀さに、研究室の恩師からは
「研究者にならないか」と勧められ、梅子はまたとないこの話に
葛藤しましたが、日本の女性の教育と地位の改革に
使命感を持っていたため、この話を断り日本に帰国しました。
再び華族女学校で教鞭をとる中、アメリカやイギリスへ招かれる機会があり、
ヘレン・ケラーやナイチン・ゲールとも会い、
大きな刺激を受けました。そうした中で梅子は、
華族女学校での華々しいキャリアを手放して、かねてからの夢であった
自分の学校を作ることを決意しました。梅子が作ったのは、
英語教員を育てるための女学校でした。
梅子は女性が自立するためには、なによりも安定した職を
手にする必要があると考えました。
当時女性でも安定的な地位につける職は、
特別な教育が必要な英語教師ぐらいだったのです。
これまでの数々の友人たちにも助けられて開校した
「女子英学塾」は、はじめは小さい古民家で、
十名の生徒からはじまりました。梅子は非常に情熱的で
厳しい先生でしたが、次第に高いレベルの英語教育が
身につく女子学校として評判となり、生徒も増えていきました。
女子英学塾は関東大震災などの幾多の困難を乗り越えて
大きく成長し、後の津田塾大学となりました。
近代的な価値観とキリスト教信仰
今でこそ、基本的人権や人類の平等は当然の理念として受け入れられていますが、
開国間もなく、厳しい身分制度が色濃く残る明治時代、
キリスト教的思想は日本人にとっては先進的なものでした。
道徳理念的にも、強者が欲しいままにふるまって
弱者から搾取するのは当然の事とされていました。
梅子や仙から見て、西洋の先進的な思想の裏に
キリスト教があることは明らかでした。
キリスト教信仰は人命を神の前に等しく尊いものとし、
神の前にへりくだって、互いに愛し合い、助け合うようにと勧めています。
またこの世界での命には限りがありますが、
神を仰ぐときに死んでもなお天国に行くことができると教えているのです。
梅子や仙はこの愛と希望に満ちた教えに感銘を受け、
深く共感して受け入れたのではないでしょうか。
使命に生きる
梅子は士族の出身者であり、その周りも華々しい社交界の人々でしたが、
鹿鳴館の舞踏会や表面的な西洋かぶれに興じる人々を、
どこか冷めたまなざしで見定めていました。
そして地位の低い人々や、特に不当なまでに
虐げられていた当時の女性たちに心を向けていました。
そうして梅子はその生涯を女子教育と女性の地位向上のために捧げました。
激動の時代に、日本初の女子留学生という数奇な人生を歩んだ梅子は、
「この特別な人生には何か意味がある」ということをよく自覚し、
誠実にその任務を果たそうとしていたのです。
そして留学や教育の経験、与えられた環境から
「自分にしかできないこと」があり、それが何であるかを理解していたのではないでしょうか。
それはけっして平穏で楽しみばかりの人生ではなかったことでしょう。
ひたすら勉学に努め、生みの親や育ての親との離別も経験し、
アイデンティティのゆらぎや孤独を感じることもあったはずです。
しかしそのような中でも、与えられた境遇を感謝し、
周囲の人々との愛を育み、またさらに見知らぬ人々への愛に
突き動かされてまい進し、その使命のためにいのちを燃やし尽くしたのです。
私たち一人ひとりにも、神様が与えてくださった
ご計画と使命があります。さまざまな困難に立ちすくむときに、
天を見上げてその意味を問い、そして神様の視点で感謝してそれを受け入れ、
大胆に応答して生きる者でありたいと思わされます。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って
召された者たちと共に働いて、
万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
<ローマ人への手紙8:28>
~新生宣教団~
クリスチャン人物伝より