2020年10月18日21:10
主に委ねるとは
カテゴリー │牧師のメッセージ
教会では、主に委ねましょう、ということばをよく使います。
この言葉は頭では解っているようですが、
なかなか実行できないのが私たちではないでしょうか。
マリヤの受胎告知をとして主に委ねるということが
どのようなことか学んでみましょう。
御使いガブリエルが、マリヤに受胎告知をしたとき、
マリヤはひどく戸惑い恐れたました。
<ルカ1:26~31参照>
その後、御使いはマリヤに身ごもって生まれる子が
どのような者であるかを詳しく伝えたとき、
マリヤは「…おことば通り、この身になりますように。」
と言いました。
しかし、その時すでにマリヤには
婚約者であるヨセフがいました。
ヨセフがこの事を知ったとき、
彼は公になることを好まず、
ひそかに離縁することを決心しました。
当時、このような事に対するの扱いは、
女と相手の男を石打ちの刑に処するというものでした。
<申命記22:33>
ヨセフがマリヤを受け入れるてくれることで
石打の刑は免れましたが、十ヶ月の間、
人々の視線はどんなにか冷たかったことでしょう。
しかし、二人とも、個々に主がはっきりとした
メッセージを語ってくださいましたから、人々からの
中傷誹謗に絶えることが出来たのではないかと思います。
その後、マリヤは祭司であるザカリヤの家に行き、
彼の奥さんと交わったことが記されています。
何の目的があって、祭司ザカリヤのところに行ったのかは
記されていませんが、文面からすると、
御使いから受胎告知をされた時、彼女は戸惑いながらも
懐妊することを受けいれましたが、その後、幾度となく様々な
不安や恐れに苛まされたのではないでしょうか。
どんな人でも、初めての経験や体験は不安なものです。
マリヤは、受胎告知を受けた時、主に委ねましたが、
様々な不安が心をよぎったのではないでしょうか。
それを知ったザカリヤの妻エリサベツは
「主によって語られたことは、必ず実現すると
信じ切った人は、何と幸いでしょうか。」と言われました。
上記の事から、
主に委ねるとは、主が語られたことを信じ切ることです。
このことばを聞き励まされたマリヤの告白は実に力強いものです。
「わがたましは、主をあがめ、わが霊は、
わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこのはしためのために目を留めてくださったからです。
本当に、これから後、どの時代の人々も、
私を幸せ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださいまいた。…」
<ルカ1:47~49>
上記の事から、
主に委ねる者は、主をたたえる者でもあるということです。
マリヤは、その後3ヶ月エリサベツの家で暮らしたと記しています。
その目的について、聖書は記していません。
悪阻のためだったのか、人々からの誹謗中傷から身を守るためだったのか…。
そこにいることが、彼女にとって平安があったということではないでしょうか。
因みに、委ねるの「委」という字は、
稲穂が垂れ下がっている状態を表しているということです。
稲穂が茎にその身を委ねた姿であり、その下に「女」と書くのは、
女性は美の代名詞、穏やかの代名詞でもありますから
《委ねる》とは、とても美しい様を表しています。
クリスチャンであっても、どんなに自分が信仰深いと思っても、
所詮罪人であり、明日をも分からない者です。
それらを恐れるとき、動揺するとき、不安になるときがあり、
自分を見失うときすらあるものです。
ヨセフのようにマリヤのように、目先の事に捉われないで、
主に完全に委ねていく者となりましょう。
あなたの将来は、愛に満ち希望に満ちたものなのです。
なぜなら神の愛が、私たちの心の注がれているからです。
~2020年10月4日(日)日曜礼拝メッセージより~
***10月の暗唱聖句***
主は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱さのうちに完全にあらわれからである。」
ですから、私はキリストの力がわたしを覆うために、
むしろ、大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
<第二コリント12:9>
***教会の集会ご案内のページは こちらです。***
https://tenryumegumi.wixsite.com/mysite-2

この言葉は頭では解っているようですが、
なかなか実行できないのが私たちではないでしょうか。
マリヤの受胎告知をとして主に委ねるということが
どのようなことか学んでみましょう。
御使いガブリエルが、マリヤに受胎告知をしたとき、
マリヤはひどく戸惑い恐れたました。
<ルカ1:26~31参照>
その後、御使いはマリヤに身ごもって生まれる子が
どのような者であるかを詳しく伝えたとき、
マリヤは「…おことば通り、この身になりますように。」
と言いました。
しかし、その時すでにマリヤには
婚約者であるヨセフがいました。
ヨセフがこの事を知ったとき、
彼は公になることを好まず、
ひそかに離縁することを決心しました。
当時、このような事に対するの扱いは、
女と相手の男を石打ちの刑に処するというものでした。
<申命記22:33>
ヨセフがマリヤを受け入れるてくれることで
石打の刑は免れましたが、十ヶ月の間、
人々の視線はどんなにか冷たかったことでしょう。
しかし、二人とも、個々に主がはっきりとした
メッセージを語ってくださいましたから、人々からの
中傷誹謗に絶えることが出来たのではないかと思います。
その後、マリヤは祭司であるザカリヤの家に行き、
彼の奥さんと交わったことが記されています。
何の目的があって、祭司ザカリヤのところに行ったのかは
記されていませんが、文面からすると、
御使いから受胎告知をされた時、彼女は戸惑いながらも
懐妊することを受けいれましたが、その後、幾度となく様々な
不安や恐れに苛まされたのではないでしょうか。
どんな人でも、初めての経験や体験は不安なものです。
マリヤは、受胎告知を受けた時、主に委ねましたが、
様々な不安が心をよぎったのではないでしょうか。
それを知ったザカリヤの妻エリサベツは
「主によって語られたことは、必ず実現すると
信じ切った人は、何と幸いでしょうか。」と言われました。
上記の事から、
主に委ねるとは、主が語られたことを信じ切ることです。
このことばを聞き励まされたマリヤの告白は実に力強いものです。
「わがたましは、主をあがめ、わが霊は、
わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこのはしためのために目を留めてくださったからです。
本当に、これから後、どの時代の人々も、
私を幸せ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださいまいた。…」
<ルカ1:47~49>
上記の事から、
主に委ねる者は、主をたたえる者でもあるということです。
マリヤは、その後3ヶ月エリサベツの家で暮らしたと記しています。
その目的について、聖書は記していません。
悪阻のためだったのか、人々からの誹謗中傷から身を守るためだったのか…。
そこにいることが、彼女にとって平安があったということではないでしょうか。
因みに、委ねるの「委」という字は、
稲穂が垂れ下がっている状態を表しているということです。
稲穂が茎にその身を委ねた姿であり、その下に「女」と書くのは、
女性は美の代名詞、穏やかの代名詞でもありますから
《委ねる》とは、とても美しい様を表しています。
クリスチャンであっても、どんなに自分が信仰深いと思っても、
所詮罪人であり、明日をも分からない者です。
それらを恐れるとき、動揺するとき、不安になるときがあり、
自分を見失うときすらあるものです。
ヨセフのようにマリヤのように、目先の事に捉われないで、
主に完全に委ねていく者となりましょう。
あなたの将来は、愛に満ち希望に満ちたものなのです。
なぜなら神の愛が、私たちの心の注がれているからです。
~2020年10月4日(日)日曜礼拝メッセージより~
***10月の暗唱聖句***
主は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱さのうちに完全にあらわれからである。」
ですから、私はキリストの力がわたしを覆うために、
むしろ、大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
<第二コリント12:9>
***教会の集会ご案内のページは こちらです。***
https://tenryumegumi.wixsite.com/mysite-2
